J.S.バッハの頃のピアノ
イタリアではクリストフォリのあと後継者がなく、ピアノづくりはドイツのオルガン製作者ジルバーマンに受け継がれ、改良されていきました。
この時代を代表するドイツの作曲家J.S.バッハ(1685-1750)は100曲以上の鍵盤作品を残しました。しかしながらこれらは全てチェンバロ又はオルガン用に作曲されたものでした。
J.S.バッハは試作段階のピアノよりもチェンバロの方がお気に入りだったようです。
「平均律クラヴィーア曲集」のクラヴィーア(Clavier)とは独語で単純に「鍵盤」を意味します。(ピアノのではない)
イタリアの作曲家スカルラッティ(1685-1757)が残した550曲のクラヴィアソナタも、全てチェンバロのために書かれたものです。
J.S.バッハの息子達の頃、ようやくピアノが受け入れられるようになりました。
特に次男のカール・フィリップ・エマニュエル・バッハは6巻のソナタ集を残していますが、
そのうち2−6巻までは”ピアノ(Forte-piano)による”演奏を要求しています。
彼の音楽の特徴は誇張された表現を鍵盤に語らせるように作曲しているところにあります。
ピアノが生まれた当時は強音(forte)も弱音(piano)も出せる楽器ということで
「フォルテ・ピアノ(Forte-piano)」と呼ばれていましたが、
19Cにはこれが省略されて「ピアノ」という名称が定着するようになりました。